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17:26:04
世の中、社会通念として当たり前だと思うコトがあるけれども、それは本当に当たり前なのか。

その当たり前というのは、自分の所属している小さなコミュニティの中でしか通じないモノなのかも知れない。

隣の町、隣の市、隣の県、隣の国…少し考えて見れば共通認識を持つ事柄もあるけれども、そうでない事柄もあることが容易に想像がつく。

自分は「算命学を勉強している者」という少し変わったコミュニティにも所属している。

このコミュニティの中で使う言葉はこのコミュニティのなかで共通認識されているモノであるが、それが一般社会に出たときその言葉が自分が持っている意味と同等の意味で認識されるのか。

それは「否」。

下手をしたら拒否反応を呼び起こすような言葉も出てくる。

そしてそのような言葉を此方があたかも「当たり前」として使っても、それが受け入れられる訳ではない。

そこを理解しなければ「会話」は成り立たない。

相手の目線、相手の立場になって言葉を選ぶ。

読み書きを始めたような言葉に、大人が演説をするような時に使う言葉を使っても理解は出来ない。

難しい言葉を難しいまま使うのではなく、難しい言葉にも同じ意味を持つ易しい言葉がある。

それをどれだけ相手に合わせて使いこなすか。

必要以上にそのレベルを低くする必要はなく、その人の適正に合わせた言葉を使用すればよい。

また以前にも書いたと思うが、言葉には裏表がある。

その表裏を上手く使いこなすコトも同様である。

一つの状態を伝えるのにどの言葉を選択するのか、それは伝授者のセンス、経験に因る。




自分には伝達の星である鳳閣星/調舒星がない。

けれども人間は生まれ持って五本能を持っている。

伝達の星を持っていなければ、伝達の場所にある星を駆使して活用すること。

自分は此処の玉堂星があるので、伝達をするにも勉強。

そうすることで伝達をするコトが出来るようになる。

というコトらしい。
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14:56:40
先日の『フルタチさん』の放送で、一番最後に話をした「フルタチ訓」は正に算命学の考え方と一緒だった。

というか、分かっている人には算命学の考え方は当たり前だというコト。

小林善光氏が座右の銘としている言葉。

『宿命に耐え
運命と戯れ
使命に生きる』

算命学でも全く同じことを言っている。

どの国に生まれ、どの親の元に生まれ、そこで生まれた順番、男女の性別など、生まれた環境である宿命は変えられない。
けれどもその宿命の隣にある環境次第では運命をプラスにもマイナスにも変えるコトが出来る。
そうすることによって、自分が生まれてきた意味を考えそれに生きて行くことによって大変な道のりかもしれないが人生を謳歌させる。

自分の生まれた意味、使命が見えてこなくても、宿命に耐え運命と戯れるコトによって見えてくるモノが出てくるはずである。

そこからスタートをすれば良いのではないか、と思う。








12:57:53
冬休みの間、時間があったので算命学を最初に勉強していたところのテキストを見て振り返りをしていた。

流派によっては同じ事象を言っていても表現の方法が違ったりと目新しいコトもあるという。

実際以前勉強していたところは高尾系(多分)、今勉強しているところは朱学院。

両方を知っている人に言わせると、高尾系は理論は分からないけれども表現が分かりやすいので伝えやすく理解しやすい。朱学院は理論は分かるけれども言葉が難しいので言葉どおりに伝えても相手が理解をしてくれない。と、違いを言っていた。

なるほど…。朱学院で勉強をしているからその違いが自分も若干感じるコトが出来る。←此処まで成長出来たコトは嬉しい

確かに朱学院の方が言葉は難しいけれども、それはどれだけ自分がその言葉の真意を理解し相手のレベルに合わせて話をすることが出来るかにかかっているので、朱学院と高尾系の言葉の違いはあまり気にはならない。

それよりも天中殺の取り方がこうも違うモノかというコトの驚きの方が大きい。

それぞれ良い面もあるし訝しい面もある。

朱学院で習っている今の時点の自分には理解出来ていないコトを、高尾系ではさらっと伝えてしまっているのかもしれない。

けど決定的に違うモノもある。

さて、これから勉強していくなかで自分は何をどう考えて行くのか。

次の1年、調舒星が廻ってくるのでその辺りをどう考えて行くかが課題になるのかなと、意識すると何かが見えてくるのかもしれない。







10:17:20
今週の土曜で今年が終わる。

算命学で見るときは立春が一年の始めになるので、まだもう暫く「丙申」の気が廻る。

とは言え、立春できっちり気が変わる訳ではないので、立春前後徐々に影響を受け、徐々に影響から遠のいて気が変わっていく。

さて、先日師匠と話をしていたときに、「来年をみる」というのも良いけれども一年を振り返って「去年はどういう1年だったのかを見る」というコトをしてみるのも勉強の一つになるよいう話になった。

算命学の場合、過去あの時点の出来事が現在に影響するというコトがあるので、単純に過去1年だけ見ればよいというコトにはならないかもしれないけれども、とりあえず今年を振り返ってみて、今年の「丙申」と大運で廻ってきた干支と照らし合わせてどんな1年でなにがどう影響していたのかを考えてみるのも面白いと思う。







2016/11/30
12:53:55
算命学では中庸が良いとされているが、「偏りが悪い」とされているわけではない。

偏りがあることで、現代の世の中で生きていく上で苦労をする面もあるというように見なすけれども、逆に偏りがあるとこでそれがプラスに働くこともある。

局法・格法など、宿命によっては特徴のあるモノも存在する。

そういうなかで偏りのある宿命は見ていてとても興味深い。

たぶんそれは自分の宿命が偏っているから。

算命学を始めた当初、自分の命式は相当な偏りがあって極単純なモノだと思っていたけれども案外そうではないらしい。

偏りとは個性であって、それをどう理解しているか、そしてそれをどう伸ばすか。

それ次第で自分の人生が変わってくる。

だから同じ生年月日で生まれた人が同じ人生を辿るわけではなく、人生行程に差が現れる。

けど、人生は悩み多し…なんだけれども。




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